資料庫
神社本教 季刊誌 「本教」昭和43年9月1日第九号
大阪教育大教授
工学博士 近藤 豊
文化財専門委員
清水の舞台や音羽の滝は、全国に知られ、観音霊場や京都名所として古い昔から参拝者が絶えない。五条坂から次第に坂を上ると、前に仁王門、左に馬駐(うまとどめ)、右に西門(さいもん)と三重塔と、大小高低この斜面に配された建築群は、背後の山の松の色と応じて、まことに大和絵そのままの情景である。ここを登り、経堂、田村堂、轟門(とどろきもん)と過ぎて、舞台(本堂)から奥千手へと進むのが、普通の参拝順路である。この一郭にもまとまった一群が配されている。
地主神社は、本殿が清水寺本堂と中心線をほぼ共通にして南面し、その前に半ば懸造(かけづくり)になった拝殿があり、西寄り石段の上に、総門が配置されている。その他、これらより新しい本殿前唐門と、塀、宝庫などがある。創立などは、その歴史の古さ故か、十分な資料がないらしく、わからぬことが多いようである。しかし、当社の桜については、昔から「地主桜」として知られ、謡曲にもあらわれている。
創建について伝えるところでは、起源は不詳であるが、平安時代、天禄三年(九七二)-一説同元年-三月、円融天皇行幸の際、初めて臨時祭を行う、というから、その古いことが推察される。また、白河天皇も行幸されたという。
祭神は、現宮司、中川平氏の教示によれば、本殿内中央に、大国主命(大貴己命)を、その他に、素盞嗚尊、奇稲田姫命、手摩乳命、足摩乳命を、相殿に、天児屋根命(元清水寺境内春日明神)乙羽滝守護神・少童命(龍神)、太田大神(上賀茂神社)が祀られている。創建以来の沿革は明らかではないが、中世にしばしば火災に罹ったということである。
現在の主要建築は、舞台、奥千手を始めとし、清水寺の多くの建築とともに、江戸初期、寛永十年(一六三三)に完成したもので細部様式、手法も、このころの特色をよく示している。
地主神社の建築では、本殿、拝殿、総門が国の重要文化財に指定(昭和四十一年六月十一日)されている※1が本殿は、その中で、構造形式、細部などにおいて、まことに注意すべきところが多いので、ここで、それらの点を紹介するとともに愚考を加えたいと思う。
本殿は、桁行五間、梁間三間、一重、一間向拝付き、屋根檜皮葺、外観上完全な入母屋平入の左右に長い社殿である。
神社本殿として、入母屋平入に長いという形式が、すでに余り類例を見ないものといえよう。その他の点では、正面吹寄引違格子戸、柱上部以上極彩色(現在外回りは剥落甚だしいが、柱などには文様の痕が高く残っている。※2)獅子口瓦棟など、古い名残を留めながらも、近世様式に変わっているところが多いが、これらはここだけの特異なものではない。平面は前方五間二間が外陣、後方五間一間が内陣となり、外陣内部も極彩色されたところが多く、柱の金襴巻、幣軸、方立、長押、船肘木などは、江戸時代の特色ある文様が描かれて美しく、化粧屋根裏あたりは丹塗である。
この本殿で、特に珍しく見られるのは、外陣と内陣との天井形式で、双方ともが別々の山型をなす、いわゆる三ッ棟形式をなす点にある。現存の多くの神社本殿で、内外陣が扉で仕切られた場合、たいていは、内陣すなわち神座の上は天井(棹縁、鏡、格、折上など)を張り、外陣は内陣正面扉筋の上から前へかけてゆるい勾配なりの化粧屋根裏にするか、内陣とは別に天井を張るかが最も一般的なように考えられる。京都では、上・下賀茂、石清水、稲荷、八坂、松尾などの大社を始め、各地のたいていの神社本殿はそうだと考えられるのである。しかるに、地主神社本殿は、内外陣が三ッ棟式に造られている点で、ちょっと例を求めがたい。
そこで仏寺をも含めて眺めてみると、古い伝統を伝えるものにいわゆる「双堂(ならびどう)」がある。地主神社では、この形式が伝えられたと考えられないだろうか。神社がいろいろな点で、古い伝統を伝えているものとすれば、この形式は、案外古くさかのぼれるかもしれない。もっとも、現社殿が、その前のが焼けてすぐ建てられたと考えるほど、この推定が有利なわけで、その間が長いほど形式変更の可能性は大きい、と単純に考えられるから、焼失、新建の事情を十分調べる必要があると思うが、それが現段階ではできないので、一応保守的に古い姿が伝えられたものと見ておく。もしこの仮定を許せば、当社殿創建時期も、清水寺の創建のころと、考えてもよいのではないだろうか。仏堂においても、清水の舞台は、何回も造営が繰り返されても、今に古式を伝え、この天井もまた三ッ棟式を現在示しているし、焼失した延暦寺大講堂でもそうであった。昔の人は、復興に当たって、大きい現状変更は可及的に避けたものと見える。
なお、古い神社社殿で三ッ棟を持っているものに、厳島神社本社拝殿がある。(この場合、本殿、祓殿、の主要部は、折上組小格天井)これは拝殿であるが、本殿とは幣殿をはさんでいるのでここを別個の扱いとしたのであろう。しかし、ここで気になることは、いわゆる三ッ棟造が、門においては構造上奈良時代のほか江戸時代まで絶えてないことで、江戸時代になって再び現れ、清水寺では轟門に、あるいは、円教寺(姫路市)仁王門に、および、関東などにおける東照宮関係に見られることである。回廊では春日大社などにあり、その他もかつては多かったであろう。こうして見てくると、地主神社本殿の三ッ棟式も、門における三ッ棟の再出現と関係づけられるともいえようが、神社本殿ということから、簡単にはいかないように思う。その辺いかがであろうか。教示いただければありがたいことである。
現在の本殿は、上述の様に、寛永十年(一六三三)にできたもので、細部様式がそのころをよく表しているのはいうまでもないが、興味あることは、寛永八年の墨書ある清水寺西門と共通した細部をもっていることである。この西門は、門として向拝をつけている点で、現在類例なき特殊な傑作であるが、この形のもとは、流れ造の神社本殿と割拝殿とからヒントを得たものと見られるもので、その細部様式も、地主神社本殿とよく似ている。手挟における雲の彫刻、蟇股の輪郭などを見ると、両者は、同派、さらに想像すれば同一人物とまでいかなくても親子か師弟関係くらいの親密さの間柄にあった人達の作ではないだろうか。しかも、両方を並べてみると、西門の意匠のほうが多少すぐれているように見える。図柄においても向拝手挟は両方とも雲を一面に彫ったのも両者無関係と見がたく、西門軒唐破風下板蟇股と本殿外陣の蟇股とも繁簡の別はあっても同性質の線様である。
このように、ごく近い期間に造られた作品で、ごく近くに使われていながら、多少異なる作風のものは、同じ寛永のもので、延暦寺根本中堂外回りの蟇股と、同回廊のそれとの間にも認められることで、興味のあることであり、当時、大工事をやるときの意匠部門の分担関係が想像されて興味深いものがある。ただこれは、あくまで様式上に見られる差異から推察しただけであって、確実な事実が出るまでは断言できなものである。今後そうした方面でも、確定資料がでることを望んで止まない。