えんむすびの神さま 京都地主神社
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地主物語−プロローグ−御車返しの桜
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時は平安の世、嵯峨天皇を乗せた牛車は地主神社へと向かっていた。天皇が皇居からお出ましになることは国の一大事であり、もちろん多くのお伴を従えての「行幸」である。では、なぜ、嵯峨天皇は地主神社への行幸を決意されたのであろうか。
薬子の変。それは、平安京を揺るがした最初の危機であり、嵯峨天皇を苦悩させた骨肉の争いであった。病のために皇位を退いた実の兄を、薬子らが復位させようと企て、平城京への遷都を謀ったのである。花を愛で、詩歌をよくする嵯峨天皇にとって、肉親が謀反にかかわったということは、ことのほかお辛いことであっただろう。
幸いにして、歴史は嵯峨天皇に味方し、その謀反は失敗に終わった。嵯峨天皇がいかなる対処を施したゆえに、平安京を守ることができたのか、史実はそれを伝えてはいない。
しかし、地主神社には、ひそかに語り伝えられている物語がある。坂上田村麻呂との出会いである。このめぐりあいによって、平安京は都の姿をとどめ、様々な王朝文化を育んだのだ、と。
いにしえの都人は、桜の木には神が宿ると信じた。今なお地主神社には、桜の古木がご神体として祀られているほどである。その蕾がほころぶことは、大いなるご利益の現れであった。
おそらく嵯峨天皇は、桜の樹の下で田村麻呂とのご縁を感謝し、ただ深く祈ったのであろう。
「地主の桜よ。地主権現よ。どうか、この都が永久に平安でありますように。田村麻呂との縁を授けてくれたように、この都にも素晴らしいご縁が多く訪れますように…」
 
地主物語−プロローグ−
 
御車返しの桜
 
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嵯峨天皇と坂上田村麻呂の縁
「16年の都」だったかもしれない平安京
桓武天皇の平安遷都から、400年にもおよぶ平安時代。歴代の天皇のなかでも、嵯峨天皇は30年の長きにわたり、宮廷に君臨し続けました。平安京を「万代の宮」と宣言し、雅やかな平安王朝の基盤を確立されたのです。しかし、その道のりは必ずしも平坦ではありませんでした。それどころか、「16年の宮」だったかもしれないほどでした。
 
千年の都の礎を築いた嵯峨天皇
平安遷都から15年。ようやく落ち着きつつあった809年、嵯峨天皇は、病のために皇位を退いた兄にかわって即位しました。時に、24歳という若さ。しかし、間もなく天皇ご自身も体調がすぐれずにいた翌年、思いがけない事件が起こります。
兄である平城上皇の寵妃の薬子が、薬子の兄にあたる藤原仲成と謀り、多くの官人たちを引き連れて平城遷都を断行したのです。京に、嵯峨天皇。奈良に、平城上皇。人々は二分し、都人の心は大いに乱れました。
この混乱を抑えようと、嵯峨天皇は薬子の官位を影奪します。が、あろうことか薬子らは断固として戦う構えをみせ、畿内や紀伊の兵を集めて都に攻め上ろうとしていました。
そこで、嵯峨天皇が最後の頼みの綱としたのが、坂上田村麻呂です。
 
軍神・田村麻呂が京の都を護る
田村麻呂は、当時53歳。しかし、嵯峨天皇の父・桓武天皇から、二度も征夷大将軍に任ぜられたほどの優秀な武将でした。
田村麻呂は、すぐに兵を指揮して薬子らのもとへと攻め入りました。「あの田村麻呂が来た」というので、薬子らが集めた兵は、たちまち逃亡。劣勢を悟った薬子は毒をのみ、藤原仲成は射殺されます。また、平城上皇は落飾して出家の道を選ぶという悲劇のうちに、事件は幕を閉じました。これが、後の世にいう「薬子の変」です。
この変事が多くの血を流さずに平定されたことについては、空海の力添えがあったともいわれています。実は、嵯峨天皇と空海は共に書をよくし、後に「三筆」に数えられています。文化や信仰を重んじていた嵯峨天皇は、唐で政治や法についても幅広く学んだ空海を厚く信頼し、変後の政策を相談されたようです。空海は、兄を思いやる嵯峨天皇の気持ちに応え、平城上皇を仏門に導き入れることを進言し、まず朝廷内の安泰を図ることが、都を平安にする一歩になると説いたそうです。
 
都の安寧を地主桜に祈る
再び、京の都が落ち着きを取り戻しつつあった811年。嵯峨天皇は、伴の者を引き連れ、地主神社へと行幸されました。神代から鎮守の社として伝わる地主権現に、末永く都の平安を祈ろうとされたのでしょう。
祈願を終え、帰途につこうとする牛車を、嵯峨天皇は二度、三度と引き返らせます。時は春。境内には、地主桜が今を盛りと、一重に八重に咲き誇っていました。
思えば、都は平安となったものの、血を分けた兄は仏門に入り、自分たち兄弟のために命を落とした人もいる。もうこんなことのないように都を治めよう…と地主桜に誓われたのでしょうか。嵯峨天皇は、心ゆくまで花を愛でられたのです。
一方、田村麻呂は、薬子の変を征圧した後、最後の仕事を終えて安心したかのように世を去りました。そして、嵯峨天皇は、その深いご縁に感謝を込めて、田村麻呂が仕えた桓武天皇をお祀りしたともいわれる地主神社に、田村麻呂を祀られたのではないでしょうか。今でも、地主神社には、田村麻呂が奉納したとされる刀が伝わっています。
また、嵯峨天皇が都の平安を願う心は、さらに広がってゆきます。その一つが、賀茂社に斎院を創設し、わずか4歳の有智子内親王をお仕えさせたこと。以来、歴代の内親王が斎王として賀茂祭に奉仕する“斎院の制”が始まり、朝廷の祭祀として人々の尊崇をうけました。これが、現代に伝わる「葵祭」となったといわれています。
あれから千年以上の時が流れ、地主桜は、いつしか「御車返しの桜」と呼ばれるようになりました。今なお春がめぐり来るごとに、変わらぬ美しい姿を、私たちに見せてくれています。
 
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ご社殿
平安朝の優雅さと桃山文化の雄大さを巧みに取り入れた極彩色模様は、比類のない見事さ
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一樹に八重と一重の花を持つ「地主桜」をあらわす社紋
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田村麻呂奉納の刀
5/5の地主祭ではこの坂上田村麻呂の刀を奉じて行列を行っている。
 
嵯峨天皇
平安初期の天皇。809〜842年まで在位し、天皇の秘書官をおく「蔵人所」や、京内の警察にあたる「検非違使」などを設置した。また、『新撰姓氏録』や『弘仁格式』を編纂し、律令政治の定着に努めた。漢詩文・文筆に長じ、空海、橘逸勢とともに「三筆」の一人とされる。
坂上田村麻呂
平安初期の武将。征夷大将軍となり、東北地方の平定などに功績をあげた。そのため、東北地方にも田村麻呂の伝承が多く残されている。その後、文武の重職を歴任し、大臣に次ぐ位とされる「大納言」にまでなった。娘の春子は桓武天皇の后となり、親王の母となっている。
 
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